土足で上がり込む

ここ最近、ようやく自分が望んでいた人の記憶に関する仕事に触れる機会が多くなってきた。でも、その一方で、自分や今の社会のニーズの物差しだけで、本当に隠れた記憶のようなものをオープンにして良いものなのか迷う瞬間がある。

すでに死んだ人であっても、他人に知られたくないエピソードのひとつやふたつはあるはず、である。それを楽観的な気分に任せて、土足で上がり込むような真似をしていいものなのか。

人と話すときに言葉を選ぶように、記憶と触れ合うときはそれなりの態度と節度が必要だろう。その資格のような何かを、自分は身に付けているのか。
そんなことを思っていると、自分自身が常に判断の岐路に立たされているようで非常に居心地が悪い。

「もしかしたら、知らなくていい情報というのも、やっぱりあるのかもしれない」と思いつつ、今日も原稿を書く手が止まっている。
まったくもって、良くない傾向である。

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