欄干から落ちる

「たまたま時間ができたので、銀次郎(愛猫)へ新年のあいさつをしに行くよ」という連絡が相次いだものだから、いつもはコンビニの弁当で簡単に夕食を済ますのに、原稿の合間を見ながら近くのスーパーを何件か回るという、最近ではめずらしい時間の過ごし方をしてみる。
牡蠣のオイル漬け、鮪と蕪のサラダ、鶏もも肉のロースト、翌日は原稿をやはり書きながら、安かった椎茸や牛蒡をコンフィにして、煮込んだトリッパと合わせる。
料理は、難しい道具を使わずとも手の掛けようでおいしくなる、という当り前の事実に直面。
原稿も、仕事も、人間付き合いもしかり。
世界は重要な比喩で満ち溢れている。

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その買い物の途中、寒さに凍えながら大学通りを歩いていると、遠くから男の喚き声が聞こえる。
酔っ払っているおじさんである。住宅街に声を高々と響かせて、誰とも知らぬ女への罵詈雑言。しかし、なんだか歌っているようにも聞こえるから不思議である。

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そこで、昔住んでいた都電近くの家の近所で、夜必ず決まって橋の欄干の上を綱渡りのように歩く職人さんがいたことを思い出す。
もちろん、常に酔っ払っているのである。なぜそこまで泥酔するのかはわからないけれども、早い時間からかなりの量を仕込んでいるらしい。
しかし、職業的な性なのかなんなのか、端まで行くと器用に体をひとひねりさせて、再び今歩いた筋を戻っていく。それを何度も何度も繰り返して、最後は到着した端の上で一回転して、両足を揃えて地面にジャンプ。両手を広げて、満面の笑みで着地のポーズである。
その体操選手さながらの優雅な演技をたびたび目撃していた母曰く、「そのうちいつか、着地する側を間違っちゃうね、あれは」。

そしておじさんは、やはり着地する側を間違ってしまった。

深夜、外がサイレンの音で騒がしいの気づいて、母に連れられて家を出ると、川岸のほうがやけに明るい。どうやら人が川に落ちて、救急車が来ているらしい。
おじさんである。
いつもよりも多めに酒を飲んでしまったのか、いつもよりも多めに回転のひねりを加えてしまったのかわからないけど、とにかく方向が狂ってしまって、川底に向かって着地をしてしまったのだ。
幸い、川底の岩にはぶつからず、水面にそのまま吸い込まれていったので、大きなケガにはならなかった。流れ流れてなんとか岩棚にしがみついたところで、どうにか救助されたらしい。ヘドロまみれになったおじさんは、もはや笑みなど浮かべていなくて、ガタガタと震えていたそうだ。
恍惚の顔か、恐怖におののいた引き攣り顔か、右か左かを誤るだけで結果は大きく違う。

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ただそれは、目撃した親や周りの人々の想像であって、当の本人はまったく違うことを考えていたんじゃないか、と今想像する。
例えば、「実は、毎回死のうとして欄干に乗っていた」とか。
欄干を歩きながら、落ち場所をためらっているうちに、気づいたら反対の岸にたどり着いてしまう。その繰り返し。
とするならば、体操選手のように美しく着地をしたのは、死に迷う自分を見られたことへの恥じらいか。

滑稽だった記憶が、視点の角度を少し違えただけで、急激に反転する。
そのにじみ出てくるような恐怖。

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スーパーに寄った帰り、またもや通りで大声で話をする男性を発見。
よく見たら、今度は酔っ払いではない。中国人の若い留学生である。
あまり感度のよくないハンズフリーで電話をしているらしく、ひとり喚いているように聞こえる。
ただし、会話はすべて中国語。何を喋っているのかはわからない。
たったそれだけのことなのに、脇を静かに通り過ぎるとき「今、何の想像力を欠いたんだろう」と自問せずにいられなくなる。

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